ちはや鍼灸接骨院の院長の高橋裕介です。
ホームページを見て頂き、本当にありがとうございます。
ちはや鍼灸接骨院は2011年9月に開院しました。
ホームページでは当院の事だけでなく、私の事を少しでも分かって頂き、「接骨院をおとずれるきっかけになれば…」との想いで作成いたしました。
悩みをお持ちの方は、お気軽にご連絡ください。
自己紹介
氏名 髙橋 裕介
生年月日 1981年4月1日
血液型 A型
出身 愛媛県四国中央市(旧伊予三島市)
家族構成 妻・息子・娘・私の4人で毎日楽しく生活中
取得資格
- 柔道整復師
- 鍼灸師
- ホームヘルパー
- 健康運動実践指導者
- 福祉レクリエーションワーカー
- 障害者スポーツ指導員
- ゲートボール審判員
- 狩猟免許
経歴
1993年
松柏小学校卒業
4月1日生まれで、身体がとても小さかった私は、何をしてもスムーズに出来ず、チーム対抗で遊ぶ時は最後までどちらのチームからも声がかからない。
そんなこともあり、小学校5年生になるまで野球チームへの入団が許可されませんでした。
入部後は野球ができる喜びを感じながら生活し、中学校入学時も迷わず野球部に入部しました。
1996年
三島東中学校卒業
時代は「Jリーグ開幕」「スラムダンクが爆発的人気」そんなこともあり、小学校時代100人以上いた地域の野球団員は中学校で10人まで縮小。
そのお陰で試合機会に恵まれる事が多くなり、経験値を獲得。
小学校時代、全く怪我をしたことがなかったのですが、中学時代に肘や肩、足首の捻挫を幾度と経験し、気づくと痛みを庇いながら野球する事が日常になっていました。
当時は整形外科に受診する事しかないと思い込み、安静にしてないと痛みがとれないと思い込んでいました。
しかし、野球が楽しすぎて痛みが軽減するとすぐに再開し、また怪我をする事を繰り返していました。
怪我は多かったものの、中学校での野球が一番楽しく、一番後悔する時期でした。
1999年
愛媛県立三島高等学校 卒業
怪我がちだったのと、サッカー部の友人のモテっぷりに、入学時はサッカー部に入部希望していた筈が、何故か野球部の練習に参加し、毎日先輩からの愛情たっぷりで理不尽な指導に耐える日々。
お陰様で身体が強くなり、能力も上昇。
これから新チームでバリバリやろうと頑張っていた2年生秋、練習試合中、一塁まで走っている途中で突然腰に痛みが走り転倒。
今まで感じたことのない嫌な痛み
その後も走ると腰に痛みが出現し、脚の力が抜け転倒する生活が続き、野球以外の運動にも支障が出る為、体育の授業も見学することが多くなりました。
運動できないストレスと腰痛が解消しない不安により気持ちが折れそうになる毎日。
病院を受診するも「骨に異常なし」と言われ、薬を処方してもらいましたが、全く改善する気配が無く、痛みが強くなるばかり。
それでも早く治したい私は紹介してもらった県外の「有名」と名のつく病院を数件受診するも、やはり原因は不明。
原因不明にも関わらず増える薬の量。
野球からどんどん遠ざかり、リハビリの日々。
一生腰痛と付き合っていかないと駄目なのかと心底落胆し、リハビリのやる気も起こらず、薬も飲まず、まさに「絶望」でした。
2001年
大阪保健福祉専門学校 健康福祉科 卒業
自分の体の事が知りたい想いと都会に出たい想いが合致し、大阪で一人暮らし。
将来は「自分の様に痛みでやりたいことが出来ない人のサポートがしたい」思いから、スポーツトレーナーになる為に専門学校に入学。
そこで、障害者スポーツに興味を持ち、恩師の紹介などもあり、車椅子バスケットのサポートさせて頂くようになりました。
障害の度合いが違う中で、共通の目標に向かいボールを運ぶ姿がとても印象的で、サポートすることにやりがいを感じていました。
しかし、そこでぶち当たったのが、選手の痛みの問題。
痛みがあることでモチベーションが上がらない選手に対して、整体技術の向上を痛感しました。
「何とかしたい」
その思いが強くなるも、何をしたらいいのか分からず困り果てていました。
卒業時、リハビリやスポーツトレーナーの資格を取る事が出来ましたが、プロスポーツ選手のサポートをするには柔道整復師・鍼灸師・アスレチックトレーナーなどの資格も必要だという事が就職活動中に発覚し、またまた心が砕けそうになりました。
思いとどまり自分に出来る事を見つけ、一度地元に帰る事を決断しました。
愛媛県四国中央市を拠点に活動開始
まずはレクリエーションを行いながらの機能回復活動を行うために老人保健施設に勤務。
地元の様々な活動に参加する中で、縁あり、障害者スポーツ指導と、母校のトレーニングサポートを開始しました。
目標を見失う事が多々あり、関連病院から看護師を目指す様に支持され受験。
試験中に我に返り面接で「柔道整復師になりたい」と場違いな発言をしてしまい、失笑される。
結果はもちろん不合格でしたが、これをきっかけに、職種変更をしました。
2004年
鍼灸接骨院での勤務開始
東京で修行されていた野球部の大先輩が鍼灸接骨院を開業する事を聞き、即効で面接のアポを取り無事再就職ました。
ここでの経験は全て最高の想い出です。
働きながら学校にも通えて、分からない事は院長先生が学校では教えてくれないところまで指導してくれる。
夜は飲みに連れて行ってくれて、お酒が飲めない院長先生が自宅まで送迎していただける。
接骨院の良い所も悪い所も全て口伝して頂き、感謝しかない場所です。
現在は私の弟が後を継いで勤務しています。
2007年
四国医療専門学校 柔道整復科 卒業
初めて勉強が楽しいと感じた時期で、両親からも人が変わったとビックリされる。
ほねつぎの基礎を身に着け、これで一人前と自信を持って卒業しましたが、それが過信だったとすぐに気づくことに。
拠点を兵庫県神戸市に移動
当時のSNSはmixi、ブログはアメブロ全盛の時代。
ホームページを持っている治療院も少なく、勉強したくても情報が少ない。
四国に情報が渡ってくるのは決まって前日。
そんな状況を打破すべく、拠点を神戸に移す事を決意。
鍼灸接骨院勤務初日に先輩柔道整復師が退社するハプニングがあり、何故か他を差し置いて私が副院長に。
院長は大阪にも鍼灸整骨院を開院しており、殆どの管理を私が任される。
初めの1ヶ月は学校の勉学と臨床の違いに戸惑っていましたが、さすが本州。
勉強会の案内が1週間前に通知され、片っ端から参加。
まだまだお弟子さん制度が多く残っていた時代の為、外様枠での参加。
外様はどこの勉強会に行ってもだれにも怒られないので、施術で分からない事を毎日のようにどこかの接骨院に教えを乞いに行く。
こんな生活を続けていると、野球・アメフトなど複数チームのトレーナー活動の依頼が来るようになり、どんどん参加。
経験値が高まり、外傷と呼ばれる捻挫・肉離れ・打撲などスポーツ疾患全般の施術方法を確立していく。
骨折や脱臼はなかなか整復する機会が無い為、スキー場の救護所に出向き、救急搬送される人びとの整復と固定を担当。
病院への紹介状の書き方が分かった事で、整形外科医の先生方と知り合う機会が増え、医師会の勉強会にも参加。
流石に体力の限界を感じ、仲良くして頂いていた、大阪市の整形外科へ再就職し、そこでもいきなりリハビリ部長の大役を無茶ぶりされる。
2009年
整形外科勤務
再就職先では聞いた事もない様な珍しい整形外科疾患の患者さんも多く、毎日のカンファレンスで病症伝達をする為に、猛勉強する。
1日100人の患者さんを担当し、院長先生と看護主任とリハビリの打ち合わせ。
それでも毎日楽しく、ウキウキの日々。
鍼灸科在学中だった事もあり、睡眠時間は2時間程度の毎日で、休日はスポーツトレーナーの活動。
この時期に新快速で立って爆睡する特技を習得するも、当時はまだまだ普及途中だったiPhoneを2度電車に置き去りにする。
院長先生の勧めもあり、今までの経験を元に学会で論文を発表。
緊張の糸がはじけ飛び、発表翌日より3日間、病室で寝たきりになる。
2010年
兵庫鍼灸専門学校 鍼灸科 卒業
勤務先に鍼灸師が沢山いた事から勉強大好きな私は鍼灸科に入学。
東洋医学の礎になる理論を習得しました。
このころより自然治癒力に興味を持ち、施術方法が変化しました。
現在、鍼灸治療は脳梗塞の後遺症患者さんのみ行っております。
2011年
ちはや鍼灸整骨院を開業
人生設計では32歳で開業と決めていたにも関わらず、過信に満ち溢れていた私は30歳で開業。
同年4月に結婚したばかりで、さっそく嫁さんを不安にさせる。
※下記に整体家を目指したきっかけを記載しています。
興味のある方はご覧ください。
野球との出会い
大好きな野球。
4月1日生まれで、身体がとても小さかった私は、小学校5年生になるまで野球チームへの入部が許可されませんでした。
入部後は野球ができる喜びを感じながら生活し、中学校入学時も迷わず野球部に入部しました。
学校時代、全く怪我をしたことがなかったのですが、中学時代に肘や肩、足首の捻挫を幾度と経験し、怪我のしやすい身体になってしまいました。
整体をするという考えはこの時はなく、安静にして痛みをとることを考えていました。
その為、怪我するごとに部活を見学するようになりました。
「この痛みと一生付き合うのか…」と絶望した高校時代
高校入学後も、野球を継続。
2年の夏のこと、練習試合中、一塁まで走っている途中で突然腰に痛みが走り転倒しました。
「今まで感じたことのない嫌な痛み」
その後も走ると腰に痛みが出現し、脚の力が抜け転倒する生活が続き、野球以外の運動にも支障が出る為、体育の授業も見学することが多くなりました。
身体を動かす事が生きがいの私には不安の募る日々を送る事になりました。
病院を受診するも「骨に異常なし」と言われ、薬を処方してもらいましたが、全く改善する気配が無く、痛みが強くなるばかり。それでも早く治したい私は紹介してもらった県外の「有名」と名のつく病院を数件受診するも、やはり原因は不明。
原因不明にも関わらず増える薬の量。
野球をすることからどんどん遠ざかり、整体とリハビリの日々。
一生腰痛と付き合っていかないと駄目なのかと心底落胆し、リハビリのやる気も起こらず、薬も飲まず、まさに「絶望」でした。
私のように絶望する人の力になりたい
高校卒業後、自分自身の痛みの原因見つける為と、なにより自分の様に痛みでやりたいことが出来ない人のサポートがしたいとの思いから、スポーツトレーナーになる為に専門学校に入学。
そこで、障害者スポーツに興味を持ち、恩師の紹介などもあり、車椅子バスケットのサポートさせて頂くようになりました。
障害の度合いが違う中で、共通の目標に向かいボールを運ぶ姿がとても印象的で、サポートすることにやりがいを感じていました。
しかし、そこでぶち当たったのが、やはり「痛みの問題」。
痛みがあることでモチベーションが上がらない選手に対して整体技術の向上を痛感しました。
「何とかしたい」
その思いが強くなるも、何をしたらいいのか分からず困り果てていました。
すべての痛みで悩んでいる人たちの力になりたい
困り果てている中で、御縁があり、接骨院勤務に転職しました。
それまで、接骨院が何をするところなのか具体的に分かっていませんでしたが、働かせて頂く中で「自分のしたいことはこれだ!」と思い、働きながら学校に通う事を決意しました。
3年後、柔道整復師の資格を取得。
これで、力になれると思っていましたが、すぐに過信だと気づかされました。
学校で習った事と接骨院で習った事だけでは、まだまだ整体と呼べるだけのことは出来なかったからです。
勤務地を神戸に移動し、当時一緒に働いていた先生に指導してもらい、整体家としての心構え、患者さんとの向き合い方など技術以外の面もたくさん教えて頂きました。
並行して関西でのトレーナー活動も開始。
高校野球強豪校・社会人アメリカンフットボールチームに参加。ここでもたくさんの方々の御縁で、様々な事を吸収する事が出来ました。
スキー場での救護所活動やほねつぎ塾、解剖学講習会などに参加し、身体の奥深さや整体に対する見立てが出来始め、整体効果が見え始めたのも、この頃です。
その後、神戸松蔭女子学院大学Lacrosse部メディカルトレーニングコーチに就任させて頂き、チーム再建に着手しました。
選手たちからの感謝の声をきっかけに開業
2011年9月に開業させて頂きましたが、実は同年5月まで開業する気はほとんどありませんでした。
きっかけは、卒業した選手たちからの感謝の声と御礼の手紙です。
そこで決意が固まり、準備期間が短い中、多くの方々にサポートして頂き開業しました。
今でも選手たちから頂いた手紙は私の宝物です。
「選手のみんな、ありがとう」
痛みや不安を今以上に早く解消してもらいたい
開業から4年目を迎える事ができました。
この間、遠方からも多くの患者さんに来院して頂き本当に感謝しています。
しかし、すべての方が整体する事で痛みや不安を解消された訳ではありません。
来院した方が全員痛みや不安が解消できるように、私自身のレベルアップは常に必要だと考えています。
高校時代の自分がそうだったように、痛みと不安で絶望する人の力になる為、本日も施術道に精進しています。
「あなたとあなたの周りの人が、今以上に幸せになれるようにサポート致します」
地図情報
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※専用駐車場はありませんので、お近くのコインパーキングをご利用ください。
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